大挙して輸入されたプリンスリーギフト系の種牡馬の中では唯一その後も2、3代に渡り種牡馬として血をつないだのはテスコボーイ(Tesco Boy)だけでした。また、リーディングサイアー (Leading Sire:その年で産駒が稼いだ賞金の累計が一番だった種牡馬)に1974・75年と1978・79年に輝いています。大成功ですね。
初年度の産駒(1969年生まれ1971年デビュー)ではランドプリンスが皐月賞馬を勝利しています。この年はダービー馬ロングエース、タイテエムと3強、後の菊花賞馬イシノヒカルを含めて4強と言われ、その後のタイテエムの古馬混合レースにおける活躍からも強い世代だったと言えるでしょう。
初年度で3冠初戦である皐月賞で、早々に結果を出したわけですから注目を集めました。その後ダービー、菊花賞は2、4着でした。その後の産駒の成績を考えれば頑張ったと思います。それにしてもダービーの3強の叩き合いは名勝負でした。ランドプリンスは敗れましたが、勝ったロングエースは6番枠、ランドプリンスは20番枠、3着のタイテエムは22番枠でした。出走頭数は現在よりも10頭多い28頭でした。昭和でしょ。
2年目後にはキタノカチドキが皐月賞と菊花賞を勝ち、さらに2年後には「天馬」と言われたトウショウボーイが登場しました。天馬トウショウボーイとその世代についてはいずれ熱く語らせてもらいますが、ここでは8大競争では強烈な印象を残した5馬身差の圧勝だった皐月賞とライバル・テンポイントを寄せ付けなかった有馬記念に勝ったことと、ここでもダービーは勝てずに2着だったことだけにしておきます。
その他に、長距離適性のあったトウショウボーイと同期の天皇賞馬ホクトボーイ(当時の天皇賞は春秋ともに3200m)と菊花賞馬インターグシケンを送り出しました。とは言え、基本的にはスピード優先で早熟な産駒が多く、差し脚質の産駒に距離が持つ産駒がたまにいたという印象でした。
そして、1982年生まれで1984年暮れにサクラユタカオーを送り出しました。共同通信杯まで3連勝して春のクラシックを迎えていましたが、骨折して菊花賞しか出走できませんでした。年が明けて大阪杯(当時はまだG2)に勝ち、春の天皇賞は惨敗したものの、秋には毎日王冠、グレード制導入に伴い距離が2000mになった天皇賞と連続でレコード勝ちを収めています。
足元が弱いけど、美しい栗毛と雄大な馬体からか種牡馬になり、その血を現在まで繋いでいます。ただ、サイアーラインからもうすぐ消えそうです。
テスコボーイ→サクラユタカオー→サクラバクシンオーと繋いできましたが、次世代ではショウナンカンプがG3級のスプリンターを出してはいますが種牡馬になるような産駒は出ていません。個人的に期待していたグランプリボスがさっぱりですのでサイアーラインから消えることは時間の問題となっています。それだけにラブカンプーの復活は馬券こそ買えませんでしたが嬉しいものがありました。
さて、この血統で今残念に思うことが2点あります。
- 当時の内国産種牡馬への不遇
- テスコガビーの死
この当時はまだ重賞でもカブトヤマ記念のように父内国産馬限定のレースがありました。輸入した種牡馬から生まれたサラブレッドが席巻した状態が続いていたからでしょう。人気のあったアローエクスプレスが1980・81年とリーディングサイアーになりましたが、繁殖牝馬の質という点ではテスコボーイを継承する馬たちにも数はあっても恵まれたとは言い難い点が残念です。
そして、牝馬2冠馬テスコガビーの死です。例えば近年(と言っても2007年頃)同時期の牡馬を蹴散らしていたウオッカとダイワスカーレットですが、両馬の競争成績からオープン馬はタニノフランケルくらいで重賞勝利もありません。
名牝は必ずしも優れた繁殖牝馬になるわけではありません。
それでもテスコガビーはあの杉本アナが桜花賞で「後ろからは何にも来ない」と絶叫したとおり、いくら相手が弱くても大差勝ちをした馬です。産駒を見たかったというのが本音ですね。重なる怪我や病気だったのですから、無理に競争を継続させようとしたことはあまりにもかわいそうです。血を繋げてほしかった。
今後はキタサンブラックのブルードメアサイアー(母の父:BMS)としてか、牝系からしか見ることができなくなります。
次回の血統の話は日本で10度リーディングサイアーになったノーザンダンサー系ノーザンテーストについて書いてみたいと思います。
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