Prologue
1990年青年海外協力隊(名称当時)から帰国して1年、会社に戻って、当時競馬ゲームのWining Postがはやり始めた時で、競馬の好きな新人さんたちが「サンデーサイレンスというすごい種牡馬が来た。日本の競馬が変わる。」みたいな言葉が聞こえてきました。
その時点で競馬を20年観てきた自分には、「そんな1頭の種牡馬で競馬が変わってたまるか」と、ノーザンテーストの成功を見てきたのに、私は否定的な見方を持っていました。
結果、私の否定的な見方は完膚なきまでに否定されました。
一方で、準3冠とも言える、2冠+1冠2着の超一流馬が、なぜ若くして、日本にこれたのか不思議でした。
時代はタマモクロスからオグリキャップの時代になっていた時期でした。
血統
以下はサンデーサイレンスの血統表です。
曾祖父に当たるTurn-toはアイルランド産でアメリカに持ち込まれた馬で、この系統の割にはスピードがあり、比較的早熟だったのか8戦6勝をあげましたが、肝心のクラシックシーズン(アメリカでは5月第1週から6月)を前に骨折して種牡馬入りしています。
Turn-toの産駒からはFirst Landing、Hail to reason、Sir Gaylordなどを出していますが、いずれも早熟でした。
Hail to reasonは主に2歳時の活躍で18戦(2歳で?!)9勝を挙げて、けがのため引退し種牡馬になります。特徴としては早熟と気性の激しさがあり、この点はつぎのHalo にもつながっています。
Hail to reason産駒ではHalo以上に日本に馴染みのあるRobertoがいます。Robertoはケンタッキー州で産まれ、アイルランドに移った馬で、2000ギニー2着の後エプソムダービーを勝っています。種牡馬としても成功し、日本にもブライアンズタイム(3冠馬ナリタブライアンの父)やリアルシャダイ、Kris S、シルヴァーホークなど導入されたり、産駒が活躍したりしています。
Robertoに比べ、Haloは依然として気性が荒く、競走馬としてそれほどの実績をあげなかったのですが、運がいいことに初年度からカナダの年度代表馬を産み、1983年にはケンタッキーダービーを勝ったサニーズヘイローや、後に日本の最強マイラー・タイキシャトルの父Devil’s Bagの活躍でリーディングサイアー(その年に最も賞金を稼いだ種牡馬)になります。
ただ、当時のアメリカは、年毎にリーディングサイアーが変わる戦国時代でした。その後、もう一度サンデーサイレンスの活躍で1989年にリーディングサイアーになりますが、HaloよりもNorthern Dancer系DanzigやNative Dancer系のMr. ProspectorやAlyderのような馬力のあるスピード系が本流でした。
また、BMSであるUnderstandingの産駒がさっぱりだったこと、次の馬体も相まって、サンデーサイレンスの評価は高くなかったのです。
馬体と現役時代
サンデーサイレンスの幼少期は、よく「醜いアヒルの子(Ugly Duckling)」に喩えられる通り、馬体は異様に真っ黒で、足が長く、馬体が華奢だった上に、後ろ足が内側に湾曲していたことで見栄えが悪く、そのうえ気性が激しく扱いが難しかったようです。
また、1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったこともあるそうです。
更に、1987年ケンタッキー州キーンランドのセリ市に出される予定でしたが、見栄えが悪く、セレクトセールに出品できず、一般のセリで値が付きましたが、安すぎると感じた牧場側が買い戻したという実話が残っています。
そのせリからの帰り道、運転手が心臓発作を起こして、馬運車が横転し、運転手や乗っていた他の馬が死亡した事故が発生します。しかし、サンデーサイレンスだけは、切り傷と打撲を負ったものの、生き延びたそうです。
こうして、2度も死にかけたサンデーサイレンスでしたが、アメリカの競走馬としては、やや遅めの、2歳時1988年10月にデビューし、3戦して2着、1着、2着で休養しました。
翌年、2月に復帰して優勝、次のG2でも優勝、そしてサンタアニタで行われたG1サンタアニタダービーで11馬身差の圧勝をして、一躍、3冠第1戦のケンタッキーダービーの有力馬にのし上がります。
そして、ケンタッキーダービーでライバルとなるイージーゴア(Easy Goer)に勝利します。
レースを見ると直線先頭に立ってからは右に左によれながらの勝利でした。
当時は、馬体や血統から、人気はイージーゴアの方が高かったことを付け加えておきます。
クラシック第2戦プリークネスステークスは、順調さを欠くも、歴史的な両馬の叩き合いの末、ハナ差で2冠に輝いています。これは直線に入ってずーっと両馬の叩き合いで、本当に名勝負だと思います。
このレースの際、サンデーサイレンスは直線内から離そうとするイージーゴアに、外から何度も噛みつこうとしたと騎手は言っています。内ラチ沿いの叩き合いだったので、もう少し内に寄ったら失格になったいたかも知れません。
しかし、3冠目のベルモントステークスでは8馬身の大差をつけられ、イージーゴアに屈しています。
距離が長かったのだと思います。
その後スワップスステークスで2着に敗れるものの、スーパーダービーを勝利し、最大の目標であったブリダーズカップ・クラシックで再度イージーゴアと年度代表馬とエクリプス賞を賭けて対決します。
結果、4度目の対決もサンデーサイレンスが僅差でしたが制し、両賞を獲得しています。
まさしく、みにくいアヒルの子が大きく羽ばたいた1年でした。
引退後のサンデーサイレンスを取り巻く環境
その後、古馬になっても2戦し、イージーゴアとの再戦を目指しましたが、イージーゴアは骨折して引退し、サンデーサイレンスも靭帯を痛め引退を余儀なくされました。
2冠馬に見合うよう総額1,000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組みましたが、先に述べた種牡馬としての血統的な背景からか、サンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人だったそうです。
このような状況の中、株の1/4を保有していて、サンデーサイレンスの獲得に執念を燃やしていた、社台ファミリーの吉田善哉氏が購入を打診します。
当時、サンデーサイレンスを産んだストーンファームは規模を拡大させる中で、負債を抱えていたそうで、アメリカも不況だったことから、売却を決意しています。
一方で、日本はバブルが崩壊しつつありましたが、肝心の社台ファームは大成功したノーザンテーストで潤っていたものの、ノーザンテーストも高齢化しつつあったこと、リアルシャダイ、ディクタスの他に目玉になる種牡馬が欲しかった背景があります。
結果、シンジケート総額である1,000万ドルから10%増の1,100万ドルで購入され、日本で種牡馬として繋養されることになりました。
まとめ
文中にもありましたが、以下の4点を表題の答えとして指摘したいと思います。
- サイアーライン、ファミーリーラインともに血統的な不人気
- サンデーサイレンスを産んだストーンファームの窮状
- ノーザンテーストの大成功による社台ファームの台頭
- 吉田ファミーリーの執念とストーンファーム経営者との人脈
サンデーサイレンスはHaloの噛みつく癖を含めた気性の悪さを引き継ぎましたが、Halo自身はサンデーサイレンスの活躍を含めて2回のリーディングサイアーになっています。
しかし、当時のアメリカではMr. Prospectorの父Raise a Native系やNorthern Dancer系のスピード系が人気でした。実際、ライバルだったイージーゴアはRaise a Native系Alyder産駒でした。
また、BMSであるUnderstandingからさっぱり活躍馬がでなかったことが、種牡馬としての価値を押し下げた大きな原因であることは明らかです。
さて、1990年は日本ではバブル崩壊の始まる年でした。それまで日本は好景気が続き、競馬会では種牡馬ノーザンテーストの大成功で社台ファームは余裕がありました。
一方で、アメリカは不況が続いていて、結果的に不況からの脱却前夜でしたが、ストーンファームには差し迫った窮状があったことは確かでしょう。
最後に、いくらバブル景気を背景に、札束を見せびらかしても、意地とプライドもある馬屋の世界で、しかも国の2冠馬を、おいそれと他国のホースマンに譲れないと思います。
ノーザンテーストの成功が合っても、ホースマンとしての吉田一族と当地との深い人脈が構築されていたからだと思います。
Epilogue
こうして幸運にもサンデーサイレンスは日本に輸入されます。
漆黒の馬体と気性からくる鋭い眼光をもつ、かつての醜いアヒルの子は、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬入りすることになりました。
その後の産駒の活躍については、ご存じの通りですが、産駒についてはまた次回にします。なんと、13年連続リーディングサイアーに輝いています。
最後に、サンデーサイレンスの購入に執着し、実現した、総帥・吉田善哉氏は残念ながら1993年にサンデーサイレンス産駒を見ることなく他界しています。合掌。
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