このコロナ禍で、今年は国際競争中止が目立ちますが、現在では国際競争で香港やドバイ、オーストラリアはもちろんのこと凱旋門賞に向かうこともありますが、1960~70年代ではアメリカのワシントンDCインターナショナルというレースにスピードシンボリやタケシバオーといった日本の一流馬が招待されていた。だが、スピードシンボリが一桁だった以外は毎回何十馬身という差を持った惨敗でした。
だからでしょうか、この当時国内ではスピードを求めて、ナスルーラ系プリンスリーギフトの産駒が種牡馬として大挙輸入されました。
プリンスリーギフト(Princely Gift)は1951年生まれで、その産駒で日本に種牡馬として輸入されたのは以下の通りです。
- フロリバンダ(Floribunda)
- ファバージ(Faberge)
- テスコボーイ(Tesco Boy)
- バーバー(Berber)
- トライバルチーフ(Tribal Chief)
- サンプリンス(Sun Prince)
などなどが輸入されています。この時期はまだグレード制が導入される前でしたので、8大競争1の中でも、太字は種牡馬になれる有力な条件である牡馬クラシック、天皇賞、有馬記念を勝利した産駒が出た種牡馬です。
それでも、ファバージの産駒からは早々にハードバージが皐月賞を直線縫って勝ちましたし、エリザベス女王杯馬ビクトリアクラウンをはじめ、そこそこの活躍馬を出しました。差し馬が多く比較的力をためられる傾向にありました。現在でも牝系にその名前を見ると買いたくなってしまいます。
バーバー産駒は小回りの器用さがありましたので、カネミノブが有馬記念の連破を果たしました。
因みにプリンスリーギフトの直仔ではりませんが、1代挟んだボイズィーボーイ(Boysie Boy)からは、後に日本の生産馬として初めてジャパンカップに勝ったカツラギエースが出ています。当時は現在のように荒れた馬場の内側を保護するために仮柵を外側に施設していきますが、当時は仮柵を外側につけて開催し、開催が進むと仮柵を外す方式がとられていて、まさしく「緑の絨毯」、「トランポリン馬場」の中を各馬が牽制する中、まんまと逃げきったものでした。
さて、この血脈は結果的にはスピードはあるものの、早熟で、総じて底力に欠ける馬が多かったと思います。テスコボーイ産駒を除き、菊花賞や天皇賞は勝てませんでしたし、ダービーにもこれら輸入された種牡馬の直仔は無縁でした。
この血脈は現在瀕死の状態です。ただ、テスコボーイの系統だけはその後しばらく生き残りかろうじて現在まで生き残っています。とは言え、現役で記憶に新しいところではCBC賞であっと言わせたラブカンプーくらいでしょうか。
次回はそのテスコボーイの系統について触れたいと思います。
(1当時、まだなかった秋華賞を除く牡・牝馬のクラシック5レースと春秋の天皇賞(この時代では春秋ともに3200mで、現在では秋は2000m)と有馬記念)
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